『2050年、沈黙の居住区』(龍 博詞/Hiroshi Ryū)
- 225hiroh716
- 7 日前
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『2050年、沈黙の居住区』
居住区は生命維持装置となった。
知性は人工知能に委ねられ
感覚は人工の楽園に浸され
数万人の生命が管理される褐色の巨塔。
選び抜かれた光
調律された音
合成された香り
最適化された食
計算し尽くされた皮膚への刺激。
欲望は細分化されカスタマイズされ
不足という言葉は、いつしか消えた。
やがて人びとは、それぞれの殻へと
静かに引きこもっていった。
長いあいだ開かれることのなかった
巨塔の一室の前で
ノアとタクティオの仲間たちは立ち止まる。
硬く閉ざされた扉
内側にあるのは沈黙のみ。
タクティオ――触れ合いを大切にする人びと
彼らは外を歩き、互いの声を聞き
詩を読み、絵を掲げ
楽しみを創造しながら生きてきた。
そして、彼らは知っていた。
人間は、単独で完結する存在ではないことを
関係のなかでこそ人は人間になることを。
ノアは扉を叩き
低く、しかし確かな声で住民の男の名を呼んだ。
何度も、何度も――
やがて――扉はきしみ
長い眠りから覚めるようにゆっくりと開いた。
現れたのは
人間から遠ざかってしまった存在。
背は湾曲し、脚は大地を忘れ
腹は膨らみ、目は赤く濁り
髪は静かに去っていた。
「近づくな」
男の声は震え
その一言に長い孤立の年月が滲んだ。
彼はもはや、他者を危険としてしか認識できない。
こわばった身体は後ずさり
呼吸は浅く、視線は逃げ場を探す。
ノアは命じなかった。
説得もしなかった。
ただ、一歩
そして、もう一歩
怯える男の前に、そっと手を差し出す。
男は戸惑い、その手を見つめる。
心拍は跳ね上がり
過去の恐怖が胸の奥でざわめく。
逃げるか、閉ざすか、それとも――
長い沈黙の末
男は震える指先でノアの手に触れた。
言葉より先に、温度だけが伝わる。
その瞬間、男の頬を伝って熱い雫が流れ落ちた。
巨塔が崩れたわけではない。
幻影の楽園が消え去ったわけでもない。
世界はなお人工的で、機械の支配は続いている。
だが、一つの接触が
独りの男を人間へと呼び戻した。
触れ合うことが忘れられた2050年
ノアとタクティオたちは今日も沈黙の扉の前に立ち、
手を差しのべ続ける。




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