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物語詩『水の環を奪いし者の物語』(龍 博詞/Hiroshi Ryū)

更新日:1月31日


第一章 尽きぬ湖と与えられた環


森の奥に澄んだ水をたたえる湖

その湖は枯れることがなかった。

湖に棲む清らかな妖精リュミアは

疑うことを知らぬ存在であった。

天上のアルケオンは世界の理を司りながら

地上の個々の行く末には関心を払わぬ主神。

祈りは風のように彼をすり抜けていった。

あるときは気まぐれに

ひとつの指輪をリュミアに与えた。

水の流れを命じ、世界への巡りを束ねる

アクアマリンの環を。

リュミアはその青い指輪の霊力により

目まぐるしく変転する気候に抗して

湖を満たし、森を潤し、命を守り続けた。

その永遠にも近い水の充足は

「失われるかもしれない」という想像を

彼女の内から奪っていった。


第二章 正義をまとう欲望


そのころ、人の領域との境界あたりに

ディプセウスという魔法使いがいた。

彼は言葉を操り、姿を変える術に長けていた。

海の向こうの砂漠にある王国の噂――

雨なき空、細る泉、枯れゆく命の噂を聞き

「水に欠乏する地があるのなら、

満ちあふれる地より移せばよい」と考え

その理屈は彼の中で正義の衣をまとった。

「話に聞くあのリュミアの指輪さえあれば、

砂漠の王国は潤い、きっと民は救われるだろう。

そして、わたしは王の寵を受けるに違いない」

その内心の声は、いつしか彼の心に

奪うことが正義であるという確信を植え付けた。


第三章 赤き指輪の誘惑


ディプセウスは旅の商人の姿をまとい

湖畔の木にみずからを逆さ吊りにして

救いを求めて大声で叫んだ。

その声を聞きつけた湖の妖精リュミアは

疑うより先に、困窮する者を助け降ろした。

ディプセウスは盗賊に襲われた嘘を語り

感謝の証に赤い宝石の指輪を差し出した。

その燃えるように情熱的な色彩に

リュミアは今までにないときめきを覚えた。

「こちらを一度試されてはどうですか」

と勧められ、一瞬はためらいつつも

「アルケオンの贈り物は失われないわ」

という思いが彼女の判断を鈍らせた。

赤い指輪を指にはめた瞬間、熱が走り

アクアマリンの環は弾かれるように抜けた。

湖水は声なき悲鳴とともに空へ散った。

ディプセウスは自らを烏の姿を変え

落ちた指輪をくわえて天空へと飛び去った。


第四章 水は巡る


水は巡る。

ひとつの場所で奪われた水は

別の場所で溢れて潤いを生み

元の場所は渇いて嘆きのみが残る。

ディプセウスは海を渡って砂漠の王国に現れ

水を操る者として王の前で奇跡を示した。

枯れかかった泉はアクアマリンの指輪に応え

生き返ったように水が湧き、歓声は天を突き

ディプセウスは救世主となった。

彼はさらに、さらに王国の各地で泉を甦らせ

水は湧き、拍手は広がり、称賛は日ごとに増していった。

彼自身も、神に等しい存在として称えられ

世界を手に入れたような錯覚に身を委ねていった。

一方、うかつにも湖を失った妖精リュミアは

干上がった湖底で悔悟に沈み、

ディプセウスへの恨みの言葉を呟きながら

森とともに渇きに耐えていた。


第五章 裁定者の秤


リュミアが天空にアルケオンの名を呼ぶも

無関心な神は裁きを下さず、ただ道を示した。

「天上の裁定者メトリアのもとへ行け」と。

リュミアはその素っ気なさに落胆しながらも

枯れかかった体を起こし、両腕を広げて

天上の裁定者メトリアの館を目指し上昇した。

リュミアを前に、メトリアは語った。

この星のすべては有限であり、

満ちすぎたものは必ず別の欠如を生む。

お前の湖が失われたことで砂漠は潤った。

――では次に、何を乾かすのか、と。

リュミアは答えた。

「嘘を重ね、水を奪った者の舌を」

裁定は下り、秤は傾いた。

そこに怒りも憐れみもなく

ただ均衡を保つ理だけが求められていた。


第六章 祝宴に訪れた沈黙


その夜、栄誉の絶頂にあったディプセウスは

宮殿で催された豪奢な宴に招かれ

王の称賛を受け、黄金の記念品が贈られ

会場の拍手に包まれて幸福に浸っていた。

宴も深まった頃、ディプセウスを呼ぶ声に

振り返ると、透けるような水色の衣をまとい

妖精のように美しい女性がそこにいた。

どこかで見覚えのある女性が言うのには

特別な葡萄酒を蔵から持ち出したとのこと。

日頃は用心深いディプセウスであったが

この時は気分が高揚して疑うことを忘れ

差し出された盃から赤い液体を口に含んだ。

その瞬間、熱が舌を焼き、言葉は形を失い、

彼は二度と語ることのできぬ存在となった。


エピローグ 理は還る


水を操り、世界を手中に収めようとした者がいた。

彼は語る力を失い、その役割を終えた。

やがて湖には水が満ち、森は息を取り戻し

水が巡って均衡は回復された。

それは神の怒りでもなく、罰ですらなく、

ただ、世界の理がなるべくして成就したのだ。

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