物語詩『白い帆と花束の丘』
- 225hiroh716
- 1月18日
- 読了時間: 3分
更新日:5月6日
紺青の海と白岩の岸
その島に若者は生きていた。
潮の満ち引きが繰り返され
明日は来るものだと疑わずに。
この地で愛おしい娘を妻に迎え
名もなき時間を重ねていくこと
それが幸福なのだと
彼は思っていた。
だがある日
水平線の裂け目から
白い帆が現れた。
風を孕んだ帆は
まだ見たことのない
世界の息づかいを運び
若者の胸に
眠っていた問いを呼び覚ました。
「外の世界を知らずに
ここで暮らすことが
幸せだろうか」と。
その日から若者の視線は
足元の浜ではなく
遠い大海原へと向けられた。
若者には恋人がいた。
白百合のように純真で
素朴な美をまとった娘。
月が海を銀に変える夜
若者は浜辺で
恋人に胸の内を開いた。
「広大な海を渡り
まだ見ぬ異国に触れて
己の力を試したい」という
白い帆が運んできた幻の望みを。
娘はその言葉の奥に
戻れない分かれ道を見た。
そして涙をこらえて
静かに言った。
「あなたが
あなた自身を裏切らずに
生きられるのなら」
月の下で
ふたりの影はひとつに重なり
やがてほどけた。
そして白百合の香りだけが
夜の浜に残った。
――選ばれなかった言葉のように。
翌朝、若者は船に忍び込み
島を離れた。
帆はしっかりと風をとらえ
順調に進むかと思われた。
だが、その先の海路で
ふたつの国の争いに巻き込まれ
敵と疑われて捕らえられた。
若者の正直な言葉は
国を超えて兵士たちに届いた。
しかし――
「兵として働くなら生かす」
と告げられた。
若者は海神と縁をもつ一族の者。
笛を吹けばイルカが集い
夜の海上に見えない道を示した。
闇の波間を進み
敵船に火薬を仕掛け
静かに離れると
――闇を裂く音。
海は叫ばず
ただすべてを呑み込んだ。
戦いは一夜であっけなく終わり
若者の名は英雄として残った。
太陽の都での凱旋の日
若者は群衆の歓声に迎えられた。
祝宴の光の中
王に称えられ
力ある者たちの笑顔に囲まれ
姫たちの熱いまなざしを受けた。
島の暮らしからは
想像できない華やかな日々。
手に入れた芳醇な果実は
舌に残りすぎるほどに甘く
選んだ道を疑わせなかった。
しかし、しばらくの間
刺激的な日々が続くと
独りの夜になぜか
若者の心は
故郷の島へと引き戻された。
夢の中で
小高い丘にあの娘が立っている。
色とりどりの花束を抱え
何も語らず
ただ遠くの海を見つめている。
それは誰かを責めるのではなく
何かを問うのでもない。
ただ待つという行為。
若者は思い切って王に願い出た。
「故郷に帰りたい。
この都に連れてきたい人がいる」と。
英雄である若者の願いは聞き入れられ
船が用意された。
彼はなぜか胸騒ぎを感じながら
はやる気持ちで故郷へと急いだ。
島に着けば娘が迎えてくれると信じて。
だが、島は――
深い沈黙に支配されていた。
若者が打ち倒した敵軍の兵が
島に流れ着き、奪い、破壊して
離れたあとの静けさだった。
若者は呆然とした心を抱え
海岸を見下ろす小高い丘に登った。
そこにあったのは
整然と並ぶ墓石の列。
風が草を鳴らし
時だけが冷たく流れていた。
その墓石のひとつには
色とりどりの花束。
そこに刻まれた名は
あの白百合の娘のものだった。
若者は丘に立って海を見た。
遠くで白い帆が揺れていた。
そのとき彼は知った。
失ってようやく気付く
大切なものがあることを。
墓石に添えられた花束は
取り戻せない時のかたちとして
音もなく風に揺れていた。



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